あの日、確かに“恋”が始まった──。
春の坂道、名前を呼ばれた気がして振り返った午後三時。
広末涼子『MajiでKoiする5秒前』のように、
気づかないうちに始まっていた淡く切ない初恋の記憶。
春風に名前を呼ばれた気がして。
下校の坂道、制服の袖が揺れる。
背中から聞こえた声に、
胸がふっと跳ねた午後三時。
それが恋の5秒前だった。
「5秒前の恋、君は知らない」
春の午後三時過ぎ。
少しし肌寒い風が制服の袖を
かすかに揺らす。
放課後の坂道を、私はひとり
ゆっくり下っていた。
手に持った教科書の角が
指に当たって痛かった。
それさえも、今日は少しだけ
心地よかった。
「……あれ?」
後ろから誰かが走ってくる
音が聞こえた気がして、
私は立ち止まった。
風の音。足音。
誰かの気配。
でも、誰もいない。
気のせいか。
そう思って前を向いた瞬間——
「藤井!」
名前を呼ばれた。
その声はまっすぐで、
ほんの少し息が上がっていた。
振り返ると、
そこに立っていたのは、
クラスメイトの小田くんだった。
いつもは
静かで無口な彼が、
どうしてか今日は、
少しだけ汗をかいていた。
「なに?」と、私は訊いた。
「いや……あの、なんでもない」
そう言って、彼は照れくさそうに
頭をかいた。
私は笑ってしまった。
「名前、呼んだじゃん」
「……呼んでないし」
「呼んだよ、聞こえたもん」
それだけの会話なのに、
胸の奥がふわっとあたたかくなる。
私たちは、そのまま並んで
坂を下りた。
ほんの数メートルの距離を、
5分くらいかけて。
──春は、ふしぎだ。
言葉じゃないものが
胸に詰まって、
目も合わせられないくせに、
隣にいるのが
当たり前に感じてしまう。
信号の前で立ち止まると、
彼がポケットから
何かを取り出した。
それは、四つ折りになった
プリントの裏に
走り書きされたメモだった。
「……これ」
手渡された紙を開くと、
そこには、たったひとこと。
「好きです」
風が吹いた。
髪が揺れた。
紙が少しだけ震えた。
私は、小さく息をのんだ。
「……これ、間違えてない?」
ふざけた調子で言ったけど、
声が少しだけ
震えていた気がする。
「間違えてない」
彼はそう言ったあと、
ふっと笑った。
「5秒前までは渡す気、なかった」
「でも……今なら言えると思った」
それが、
“あの時”のすべてだった。
私は何も言えず、
紙を胸にしまって、
笑うしかなかった。
でも、心の奥で確かに思った。
——私も、たぶん、好きだった。
◾️後日談/余韻
高校を卒業してから数年、
街のカフェで偶然彼と再会した。
「藤井だよね?」
「……小田くん?」
あの日と同じように、
春風が吹いていた。
お互いに社会人になって、
少しだけ大人の顔になってた。
「元気だった?」
「まあまあ。そっちは?」
たわいのない会話。
でも、不思議と落ち着いた。
別れ際、彼がふと口にした。
「あのとき、俺……
ほんとは紙じゃなくて、
ちゃんと声で言いたかったんだ」
私は笑って言った。
「私も、ほんとは
返事、したかったんだよ」
それ以上、何も言わなかった。
それだけで、もう充分だった。
◾️あとがき
『MajiでKoiする5秒前』には、
“恋が始まる前のドキドキ”が詰まってる。
はじまりの前の、
ちょっと不器用で、
だけどまっすぐな気持ち。
この小説もまた、
そんな感情を胸に描きました。
あの春の午後三時を、
いつか誰かが思い出すように——
「5秒前の恋、君は知らない」続編
― また春が来た ―
あれから5年。
季節は何度も巡ったけれど、
春だけは少し特別に感じる。
今年もまた、
制服姿の学生たちが
同じ坂道を歩いていた。
私は今、地元の出版社で
編集の仕事をしている。
残業、校了、締切——
日々は忙しくて、
あの頃みたいに
誰かの声に振り返る余裕もない。
でも。
今日だけは違った。
信号待ち。
イヤホンを外した瞬間、
名前を呼ばれた気がして
私は振り返った。
「藤井……だよな?」
時間が止まる。
5年前と同じ声。
でも、少し低くなっていた。
「……小田くん?」
そこには、スーツを着た彼がいた。
駅前のビルで働いてるらしい。
偶然の再会なんて、
ドラマの中だけだと思ってた。
「コーヒーでも飲む?」
ぎこちなく誘われて、
私は「うん」とうなずいた。
二人で入った小さな喫茶店。
あの日、彼から渡された
“好きです”のメモの話になった。
「恥ずかしいよな」
彼は照れ笑いして言った。
「でも、あの時、
俺なりに真剣だった」
私は、胸ポケットに手をあてた。
あの紙、まだ持ってるなんて
言えなかったけど、
忘れていないよって顔で笑った。
「……藤井はさ、あのとき、
なんで返事くれなかったの?」
その質問は、
5年間の空白を一気に埋めてきた。
私は答えた。
「5秒、間に合わなかったから」
たったそれだけのことで、
あの恋は、止まっていた。
でも、今日。
5年後の今日なら、
やっと言える気がした。
「小田くん、あのときの返事……
今、言ってもいい?」
彼は真顔でうなずいた。
私は深呼吸してから言った。
「私も……好きだったよ」
風が吹いた。
コーヒーカップのスプーンが揺れた。
「過去形?」
彼がからかうように言う。
私は首を横に振った。
「……今も」
沈黙。
でも、怖くなかった。
彼は、
まっすぐ私の目を見て言った。
「じゃあ、やっとスタートだな」
──恋は、いつも
はじまる5秒前に
戻りたくなるものだけど。
でも本当に大事なのは、
そこから踏み出す一歩。
私たちの春が、
ようやく動きはじめた。

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