荒れる海に生きる者たちの誇りと哀しみ
凍てつく北の海に、黙って網を投げる男がいる。
北島三郎『北の漁場』の世界観をもとに、
海と女を背負いながら黙々と生きる漁師の物語。
潮風の中で刻まれる、男の孤独と誇り。
波の音に女の声がまじる朝
冬の海は、すべてを知っている。
夜明け前、汽笛が遠くに響く。
網を積む背中に、遠ざかる女の声が残っていた。
忘れられないのに、戻れない朝だった。
出漁前夜:港に残るあの声
風が止んだ夜だった。
港の漁火がぽつり、ぽつりと
海面に映って揺れていた。
小屋の中では石油ストーブが
静かに唸っている。
背中に感じるその熱が、
かえって胸に寒さを運んできた。
「明日も、海は荒れるな」
独りごとが、やけに響いた。
誰もいないはずの部屋で、
女の笑い声がよみがえる。
「またそんな顔してる」
少し怒って、でもすぐ笑って。
あいつはいつも、
この小屋の隅に座ってた。
湯呑みにお茶を注ぎながら、
漬物の皿をこっちに寄せる。
「熱いの飲みな」って、
それだけで心がほどけてた。
だが今は、茶も冷えたまま。
誰もいないこの部屋に、
残っているのは湯呑みの茶渋と
あのとき言えなかった言葉だけ。
「一緒に行く?」
そう訊けたら、変わってたか?
いや──
あいつは港の女だ。
男の背中が遠ざかるのを
見送ることしかできない。
港に残る潮のにおいが、
いまだにあいつの香水と
混ざっている気がして、
胸がざわついた。
煙草に火をつけ、
ひと息吸い込む。
それでも消えないのは、
あいつの最後のひとことだった。
「帰ってこなくていいよ」
強がりの声に、
俺は何も言えなかった。
時計の針が、午前二時を指す。
またひとつ、夜が過ぎていく。
明日も、海が呼んでいる──
漁場の男たち:命を懸ける場所
午前四時、空はまだ暗い。
港に集まる男たちは、
口をきかずに準備を始める。
声をかけずとも、
それぞれの手が勝手に動く。
何年も繰り返してきた
“命を懸ける朝”だ。
エンジンがうなりをあげ、
氷のような海風が顔を打つ。
眠気なんか、とっくに消えてる。
「風、変わったな」
ベテランの山崎がつぶやく。
誰も返さない。
その一言で十分だった。
波の高さ、潮の流れ、
空の色と、魚の気配。
数字じゃ測れないものを、
この男たちは知っている。
「今日は西に出るぞ」
船長のひと声で、全員が動く。
朝焼けの気配が
うっすら水平線ににじむ。
だが、海は今日も静かじゃない。
船が揺れるたび、
網を手繰る腕に力が入る。
冷たいしぶきが顔にかかる。
それでも誰も文句は言わない。
命を削るこの仕事に、
正解も保証もない。
あるのは、積み重ねた勘と、
背中を並べた時間だけ。
網に魚がかかった瞬間、
誰かがぼそりとつぶやいた。
「……やっぱ西だな」
その一言に、
全員がうっすら笑った。
笑う理由なんか、いらない。
全員が生きて帰ること、
それだけが願いだ。
船が戻る頃には、
港の灯がまた一つ増えている。
それを見届けるまでが、
この海の男の仕事だ。
愛した女:引き留めなかった理由
初めて会ったのは、
港の居酒屋だった。
漁から戻った夜、
疲れた身体に酒を流し込んでた俺に、
「飲みすぎじゃないの?」
と声をかけたのが、あいつだった。
細い体に似合わない
しっかりした瞳だった。
名前は、夏美。
笑い方が、ちょっとだけ
港町らしくなかった。
「ここ、初めて?」と訊いたら、
「もう5年もいるよ」って笑った。
あれが始まりだった。
──気づけば毎晩、
漁が終わるとあいつの店に
足が向いてた。
グラスを差し出す手、
少し荒れた指先、
「待ってたよ」と言わずに
目だけで言う女。
あのまま、
港で一緒に生きていけたらと、
何度も思った。
けれど、
口に出すことはできなかった。
俺には海しかなかったし、
あいつには俺以外の
時間があった。
「ここを出ようかと思ってる」
そう言ったのは、
冬の終わりだった。
「理由は聞かないのね」
そう言って笑ったあいつに、
俺は何も返せなかった。
──言えばよかったのか?
「行くな」と。
「俺にはお前が必要だ」と。
けど、あの頃の俺は
それが情けなくて言えなかった。
強く見せることが、
海の男だと
思い込んでいた。
最後の日、
店の灯はもう消えていた。
入り口のドアに、
たった一枚の紙切れ。
「元気で」
それだけの文字が、
まるで波音のように
胸の奥で繰り返された。
北の漁場にて:背を向けて生きる
海は、何も訊いてこない。
だからこそ、男は黙って
漁に出るのかもしれない。
あの日から、もう三度、
冬が過ぎた。
夏美の名前を口にする者は、
港には誰もいない。
だが、俺の胸の奥では
いまだにあの声が
波のように残ってる。
「帰ってこなくていいよ」
あの言葉の意味を、
今なら少しわかる気がする。
港に縛られたくなかったんじゃない。
たぶん、
俺を縛りたくなかったんだ。
それでも、
あの時「行くな」と言えなかった俺は、
今も網の重さに埋めている。
冬の海は、相変わらず厳しい。
網が切れ、
手が裂ける日もある。
だが、それが生きてる証だ。
風が凍り、
空が灰色に沈む朝。
魚を積み終えた船の上、
ふと空を見上げた。
雪が降っていた。
白く、静かに、落ちてきた。
「お前も見てるか……」
そうつぶやいて、
俺は帽子を深くかぶり直した。
あの女がどこにいるのか、
もう知るすべもない。
だが、
今もこうして海に出られるのは、
あいつが去ったあの日から
変わらず背を押してくれてるからだ。
この北の漁場で、
俺は生きる。
言葉も涙も海に置いて、
今日もまた
網を引き上げる。
それだけが、
俺の生き方だ。
後日談/余韻|港に、声はもうないけれど
春の終わり、
港に新しい風が吹き込んだ。
見慣れない船が並び、
若い漁師たちの声が
波の音に混ざっている。
そんな中に、
見覚えのない少年がいた。
まだ十にも満たないような顔で、
俺の船をじっと見ていた。
「手伝いたいのか」
そう声をかけると、
少年は無言でうなずいた。
どこかで見たような目だった。
「名前は?」
少年はしばらく黙って、
小さく言った。
「……夏」
手が止まった。
胸の奥に、
またあの声が響く。
「元気で」──
あの紙切れに込められた意味が、
ようやく今、
別の形で返ってきたような気がした。
けれど、何も訊かない。
あいつが望んだのは、
こういう再会ではないから。
俺は黙って、
船のロープを手渡した。
「明日も来るなら、早く来い」
少年はうなずいて、
港を駆けていった。
その背中を見つめながら、
空を見上げた。
風が、また冷たくなっていた。
海は、何も語らない。
だが確かに、
すべてを知っている。
あいつの声はもうないが、
残したものは、
この港にちゃんと生きていた。
作者のあとがき|背中で語るということ
『北の漁場』という曲は、
ただの演歌じゃない。
海と生きるということの、
誇りと哀しさが詰まっている。
荒れた海に命を懸ける男たちは、
多くを語らない。
だけど、その沈黙の奥にあるのは、
熱くて、深くて、
時に不器用な“愛”だ。
この物語に出てくる男もまた、
何かを守るために
言葉を飲み込んできた。
彼の中には海があり、
海の中には過去があり、
それでも前に進むために、
背中で今日を語っていく。
そして去った女も、
決して悲しいだけの存在ではない。
離れることが、
愛だったのかもしれない。
物語の中の「別れ」は、
どこかで「新しい始まり」に
つながっている。
その余韻を、
この小説の最後まで
感じていただけていたら嬉しいです。
港の風は冷たいけれど、
心の中に残る想いだけは、
あたたかいままで。
読んでいただき、
ありがとうございました。

コメント