「吉幾三『酒よ』が沁みる別れ──グラスの向こうに浮かぶ面影」

目次

静けさの向こうに、酒がある』

別れの夜に、男が酒に語る想いとは──
吉幾三「酒よ」から生まれた哀しき夜の独白

かつての恋と過去を抱えた男が、
ひとり酒に語りかける夜。
酔いにまかせてあふれる想いと、
静かに滲む人生の切なさを描く。

雪のちらつく夜、ひとりの男がグラスを見つめていた

古びたカウンターに腰を下ろし、
静かに酒をすする男。
テレビの音も届かない、
そんな夜にひとつの想いが胸を叩く。

雪が、舞っていた。
都会の片隅、裏路地の酒場。
窓の外には、白いものが
静かに積もっていく。

斉木俊二、五十五歳。
その夜もまた、決まった席に
腰を下ろしていた。

「寒い夜だな」
独り言のように、つぶやく。
マスターは黙ってうなずき、
琥珀色の酒を注いだ。

グラスの中で氷が鳴った。
静寂を割るその音に、
俊二は遠い昔を思い出す。

あの頃──
名前を呼ぶ声があった。
寒い夜も、
寄り添ってくれる肩があった。

「……いま、何してるんだろうな」

十年前に別れた女のこと。
涙を浮かべながら、
「酒をやめて」と言った。

俊二は、
その言葉に背を向けた。
酒に生き、
酒に逃げた人生だった。

「バカだったんだよな」
またひと口、喉を湿らせる。

酔っている。
でも、酔わなきゃ眠れなかった。
過去も、孤独も、
夢の中にすら出てこないから。

「酒よ……お前だけは、
俺を裏切らなかったな」

つぶやいた声は、
まるで恋人に語るように
優しかった。

雪が静かに積もる音がした。
テレビは消え、
ジャズピアノだけが流れる。

グラスはもう空だ。
マスターが再び注ごうとすると、
俊二はそっと手を上げた。

「もう、いい……
今日はこれで十分だ」

立ち上がると、
コートの襟を立てて、
扉を押し開ける。

冷たい風が顔に当たる。
吐いた息は白く、
街の灯りがぼんやり揺れて見えた。

歩く足取りは重く、
けれどどこか、軽かった。

ポケットの中、
小さなライターに触れる。
彼女がくれたものだ。
今は火も点かないが、
なぜか捨てられない。

「……来週も、来るさ」
そうつぶやいて、
夜の街に溶けていった。

静けさの向こうに、
酒がある。
それが、
彼の唯一の帰る場所だった。

後日談/余韻

数年後。
あの店はもうなかった。

更地になった場所に立ち、
俊二はただ、
懐かしい空気を吸い込んだ。

彼女の顔は覚えている。
でも、声だけは
思い出せなかった。

【作者のあとがき】

 

吉幾三さんの「酒よ」は、
男の哀愁や、
言葉にできない孤独を
見事に描いた名曲です。

この小説は、
そんな世界観を
自分なりに物語にしました。

誰かの心に、
静かにしみ込む
作品になっていたら、幸いです。

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