城之内早苗『あじさい橋』に滲む懐かしさ──博多で交わした、戻れない約束
【あらすじ】
博多の雨と紫陽花に濡れたあの橋に、二人だけの記憶が今も残る。
城之内早苗『あじさい橋』が描くのは、懐かしくて切ない“もう戻れない恋”。
【六月の博多、雨に煙るあじさい橋。】
六月の博多、雨に煙るあじさい橋。
傘を差しながら、彼の声を思い出していた。
「忘れんよ、おまえのことは」──嘘つき。
4.【博多駅から歩いて十五分。】
博多駅から歩いて十五分。
裏通りを抜けた先に、あじさい橋はある。
梅雨になると、紫陽花が川沿いに咲き誇り、
雨粒が花と一緒に、私の記憶を揺らす。
五年前、私は彼とここで別れた。
「東京に行くとね」「うん、わかっとる」
短く交わした言葉の裏に、
互いに言えなかった本音がいくつもあった。
彼は地元の小さな工場で働きながら、
家の事情で博多から離れられずにいた。
私は夢を追い、どうしても東京に出たかった。
──離れても気持ちは変わらんけん。
そんなセリフを信じたかったけど、
信じきれるほど、若くなかった。
半年後、彼からの連絡は途絶えた。
SNSも、電話も、全部。
きっと、もう別の人生を歩き出したんだろう。
そう思って、無理やり前に進んだ。

けれど、毎年この時期になると、
仕事の合間を縫って、
私はこの橋を訪れてしまう。
紫陽花は、何も知らない顔で咲いている。
あのときの言葉たちだけが、胸の奥で朽ちずに残っている。
今年も、傘をさして橋に立つ。
雨に紛れて、誰かの足音が近づく。
「……やっぱり、来とったとね」
振り返ると、そこに彼がいた。
少し老けたけれど、声はあの頃のままだった。
「手紙、書いたとよ。何度も。出せんかったけど」
言い訳のようなその言葉が、
雨の音にかき消されそうになる。
私たちは少しの間、黙って並んで立った。
傘が触れ合う距離で、言葉が見つからなかった。
──それでいい。
今さら、取り戻すことはできないけれど、
この橋に来るたび、
互いがどこかで思い出していたなら、それでいい。
雨は止まない。
でも、もう涙でにじむことはない。
.【プロローグ】
東京に戻る新幹線の中、
スマホのメモアプリに言葉を残した。
「また来年、あじさい橋で──」
送らないまま、画面を閉じた。
【あとがき】
『あじさい橋』という曲には、
季節と土地に縛られた切なさと、
そこから抜け出そうとする若さのすれ違いを感じました。
博多という街と、紫陽花の湿った風景が、
「もう戻れない場所」として、
胸に沁みるように浮かびました。
懐かしい人を思い出す、
そんなきっかけになれたら嬉しいです。

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