【あらすじ】
竹川美子『海峡おんな船』にのせて綴る、
港町に生きる女の強さと切なさ。
愛した男を追い、別れを越えて
海へ出た彼女の胸に残ったのは──
未練ではなく、覚悟だった。
【北風が頬を切る朝、】
北風が頬を切る朝、
女は黙ってロープを外した。
港の片隅、誰にも告げずに
ひとり、小さな船を出す。
あの人が帰らないと、わかっていたから。
【この町で生まれ育ち】
この町で生まれ育ち、
この港で暮らしてきた。
父の船に乗り、潮の匂いにまみれて
生きてきた私にとって、
海は日常であり、心そのものだった。
あの人に出会ったのは、
三年前の冬。
本州から流れてきた旅の男。
漁師でもなく、港に根を張る人でもない、
風のような人だった。
最初は警戒した。
でも、笑い方が優しくて、
どうしようもなく惹かれていった。
ふたりで過ごした月日は短く、
それでも濃かった。
夏の終わり、彼が言った。
「戻らなきゃいけない場所がある」
それがすべてだった。
何も問い詰めなかった。
問い詰めれば、壊れそうだった。
「いつか、迎えに来る」
そう残して、彼は海を渡った。
私は信じた。
季節が巡っても、信じた。
でも、人は潮と違って、
戻ってこないこともある。

一年が過ぎ、二年が過ぎ、
ある日、知った。
あの人は、もう別の港に根を下ろしたと。
怒りではなかった。
涙も出なかった。
ただ、潮風の音が静かに染みてきた。
「それなら、こっちから行くだけさ」
私は船を出した。
父が残した古びた船を、
ひとりで動かす覚悟はできていた。
波は穏やかだった。
けれど心は、嵐のように揺れていた。
男を責めたいわけじゃない。
ただ、言葉にしたいだけだった。
「私、ちゃんと生きてるよ」って。
夜、灯台の明かりが遠ざかる頃、
私はようやくわかった。
この旅は、彼に会うためじゃない。
彼を忘れるためでもない。
私が、私として生きるための旅だったのだ。
【プロローグ】
港に戻った春の日。
船を洗いながら、
私はふと手を止めた。
ポケットにあった、小さな紙切れ。
“ありがとう。会えてよかった。”
──彼が残した唯一の手紙。
潮に濡れて、文字がにじんでいた。
【あとがき】
『海峡おんな船』を聴いたとき、
すぐに「強く、静かに生きる女性」の姿が浮かびました。
別れに泣くだけではなく、
自分の足で海を渡る女の決意。
その背中に憧れを込めて書きました。
誰かを追いかけることは、
時に自分を取り戻す旅でもあります。
読んでくださったあなたにも、
そんな“航海”の記憶があれば──
この物語が、少しでも寄り添えますように。

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