坂本冬美『浪花』が映す切なさと懐かしさ──あの串カツ屋で、君をもう一度見た夜

目次

あらすじ

坂本冬美『浪花』が響く大阪の下町。
忘れたはずの初恋の面影と再会した夜。
懐かしさと後悔が交差する中、
ふたりは交わらぬ言葉を胸にしまい込む。
そのぬくもりは、今も消えない。


【通天閣の灯がにじむ夜】

通天閣の灯がにじむ夜、
ひとり暖簾をくぐった串カツ屋で、
思いがけず、懐かしい横顔に出会った。
あの頃の僕らが、
ふいにテーブルを挟んでいた。


【「おかえり」】

「おかえり」──
そう言われるだけで、涙が出そうになる場所がある。
僕にとって、それは浪花の町だった。

十数年ぶりに帰ってきた新世界の空は、
あの日と同じように曇っていた。
だけど、懐かしい匂いだけは変わらなかった。
ソースの香りと、油に染み込んだ人情の味。

ふと立ち寄った串カツ屋。
昔、ふたりでよく来た場所。
暖簾をくぐった瞬間、
まるで時間が巻き戻るような錯覚に陥った。

「……久しぶりやな」

低い、けれどよく通る声。
振り返ると、そこにいたのは──
あの頃のままの、彼女だった。

「びっくりした。あんた、東京ちゃうん?」

「うん。でも…なんか急に、帰ってきたくなって」

ぎこちない会話が、
油のはねる音にまぎれて消えていく。
目を合わせるたびに、
あの頃の自分がこっちを見ているようで、
なんとも気恥ずかしかった。

彼女は今、地元の会社で働いているという。
父の介護がきっかけで戻り、
そのまま居ついたらしい。

「そっちは? 東京で、うまくやってんの?」

「…まあ、それなりに。
でも、なんやろな。
頑張るほど、空回りしてる感じ」

彼女はうなずき、
黙ってビールを一口。
その横顔に、昔の笑顔が重なった。

「変わってへんな」
思わずつぶやくと、彼女は笑った。

「そっちこそ。
昔から、突然やもんな。
来て、黙って去って。
…今日も、そうなるんちゃう?」

図星だった。
言葉を返せず、
ただ、揚がった串カツを口に運んだ。

「けど、なんか嬉しいわ。
あんたが、ここにおるってことだけで」

その言葉が、
心の奥にじんと染みた。

僕たちは、たぶんもう戻らない。
でも、こうして少しだけ交わった時間が、
この先の人生にきっと意味を持つ気がした。

「ありがとな」
席を立つとき、そう言った。
彼女は黙ってうなずき、
串を揚げ続けていた。

外はまだ、小雨が降っていた。


5.【プロローグ】

東京の片隅で、
ふとテレビから聞こえた関西弁に、
懐かしい笑顔が浮かんだ。

あの夜の串カツの味も、
店の油臭さも、
全部、今も舌に残ってる気がする。

言えなかった「また来るわ」が、
今も心に引っかかっている。


6.【作者のあとがき】

坂本冬美さんの『浪花』を聴いた瞬間、
下町の風景と“言葉にできない気持ち”が
頭の中に広がりました。

大阪の町は、笑いにあふれてるけど、
どこか哀しみも抱えている──
そんな空気を背景に、
「懐かしいけど、戻れない」物語を書きました。

誰かの記憶の町にも、
似たような夜があるかもしれません。

あなたの“あの人”に届きますように。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次