「美川憲一【あらすじ】
「好きになったら命がけ」──
美川憲一『さそり座の女』が響く夜。
彼女は決して振り向かなかった。
最期の別れを告げたあの夜、
彼はまだ“嘘”に気づいていなかった。
【夜のネオンが】
夜のネオンが
雨ににじむ四谷の裏路地。
俺の傘に入ってきた女は、
昔と同じ香水の匂いがした。
あれから十年──
名前を呼ぶ勇気だけが、
まだ残っていた。
【「相変わらず、雨女なんだな」】
「相変わらず、雨女なんだな」
そう言った俺に、
彼女は黙って微笑んだだけだった。
飲み屋の暖簾をくぐると、
昭和から時が止まったような
ジャズが流れていた。
「ここ、覚えてる?」
「忘れるわけないじゃない」
あの夜も、ここで飲んでいた。
彼女が突然いなくなる、
ほんの一時間前まで。
グラスの縁に口紅を残して、
彼女は酒をあおった。
「また東京に戻ったのか?」
「ううん、たまたま通っただけ」
嘘だ。
俺はそう思いながらも、
それ以上は訊けなかった。
彼女は、
昔から本当のことを言わない。
でも、それが彼女だった。
「さそり座の女、って曲あるじゃない?
昔よく、あなたが歌ってたわよね」
「美川憲一の?ああ、カラオケで」
「私、あの歌…嫌いだったのよ」
意外だった。
「なぜ?」
「だって…私、あんな強くないもの」
彼女は笑った。
その目が少し潤んでいた気がした。
「でもね。あの歌の“さそり座の女”って、
多分、ほんとは弱いのよ。
だから、愛され方が分からないの」
俺は黙った。
彼女が自分の話をするなんて、
あの頃はなかった。
「私、ずっと誰かに裏切られるのが怖かった」
「…誰かって?」
「あなた」
その一言に、
俺の心臓がひとつ跳ねた。

「言ってくれれば良かったのに」
「あなた、聞いてくれなかったじゃない」
ああ、そうだったかもしれない。
自分が傷つくのが怖くて、
何も聞こうとしなかった。
ラストオーダーの声が響く。
彼女は立ち上がった。
コートのポケットから、
小さな封筒を取り出し、俺の前に置いた。
「これ、あの時渡せなかった手紙」
そう言うと、
彼女は一度も振り返らずに
暖簾をくぐって夜に消えた。
封筒を開けると、
短い文字が並んでいた。
「ほんとは、ずっと好きでした」
「さそり座なんかじゃ、なかったのよ」
あの夜、彼女が嘘をついたのは、
自分を守るためだったんだ。
でも、もう遅かった。
彼女はもう、どこにもいなかった。
【プロローグ】
あれから何年も経つのに、
雨が降ると、彼女の香水の匂いを思い出す。
名前も、今は思い出せないけれど、
彼女が笑いながら言ったあの言葉だけは、
今でも耳の奥に残っている。
「私、ほんとは……強くなんかないのよ」
【あとがき】
『さそり座の女』には、
どこか“強がり”の影が見え隠れしています。
「命をかけるほどの恋」なんて、
現実にはそうそうないけど、
誰かを本気で好きになった時、
人は強くもなり、弱くもなります。
この物語は、
“さそり座の女”の仮面の奥にある
小さな弱さと、最後の真実を描きたくて書きました。
読んでくださり、ありがとうございました。
ご希望があれば、

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