春の灯は、ただ揺れていた
2.【あらすじ】
◆交わらぬ想いが、季節に沈む
1970年代の東京。
再会したかつての恋人。
過ぎた時間の重みに、
ふたりは言葉を選べずにいた――
「時の過ぎゆくままに/沢田研二」。
春の灯は、ただ揺れていた
◆1 それは、再会ではなく
午後三時、東京・神保町。
外は薄く霞んだ花曇り。
その喫茶店は、
記憶のままに古びていた。
橘 誠(たちばな まこと)は
奥の席に座っていた。
彼は出版社に勤める編集者。
今年で四十六。
仕事はこなすが情熱はもうない。
目の前の珈琲からは
湯気が消えて久しい。
待ち合わせの時間は
とっくに過ぎていた。
彼女は、来ないかもしれない――
そんな予感を打ち消すように
彼はカップに口をつけた。
そのとき、
ガラス戸が小さく揺れた。
◆2 十七年ぶりの「こんにちは」
「……ごめん、遅くなって」
その声で、世界が止まった。
川原 美沙(かわはら みさ)。
大学時代に付き合っていた恋人。
あれから十七年。
誠の前に立っていた彼女は、
面影を残したまま、
大人になっていた。
ベージュのコートに黒のワンピース。
春の光が、
彼女の髪を淡く照らしていた。
「久しぶりだね」
「……うん」
ぎこちない笑顔。
懐かしい沈黙。
言葉のかわりに
時がふたりを包んだ。
◆3 あの春のつづき
「ここ、覚えてる?」
「もちろん。
君が『苦い』って文句言ってた」
「まだ苦いのかな」
二人は笑った。
けれど、それ以上は
なかなか話が進まなかった。
誠は、なぜ美沙が今、
手紙を寄越したのか聞きたかった。
けれど、聞けなかった。
美沙も、
なぜ今ここに来たのか、
言葉にできないでいた。
「結婚は、してないの」
ふいに美沙が言った。
「ずっと舞台を続けてきた。
何度か恋もしたけど、
結局、最後は一人だった」
「……そうか」
誠はそれ以上、言葉が出なかった。
◆4 記憶と、時間と、沈黙と
「誠くんは?」
「俺は、結婚して、
でも、もう別れてる。
子どもは、いない」
「そっか……」
「生活は、静かなもんだよ。
期待もされないし、
感謝もされないけど、
怒られることもない」
「そんな毎日、
きっと、悪くないよ」
誠は、頷いた。
そして気づいた。
彼女に会ったことで、
懐かしさよりも、
自分の「今」が浮き彫りになる。
あの頃の情熱や不器用さ、
どれも過去に置いてきた。
いま目の前にいるのは、
その続きを望んで
来た人じゃない。
ただ、
確認したかっただけなのだ。
もう戻れないことを。
◆5 流れに逆らえないまま
「もしさ、時間を戻せたら、
君は、違う選択をしたと思う?」
「……たぶん、
やっぱり舞台を選ぶ」
「俺も、たぶん編集を続ける」
「だよね」
二人は笑った。
乾いた笑いだったが、
そこに嘘はなかった。
「でも、こうして会えてよかった。
もう一度だけ、顔見たくて」
「それは……俺も、そうだ」
カップの中の珈琲は冷めていた。
外では桜が
静かに舞い始めていた。
「そろそろ、行くね」
「送って――」
「ううん、ひとりで平気」
それは、
あの春と同じように、
彼女が決めた一歩だった。
◆6 ただ、春は過ぎていく
扉が鳴り、
美沙の姿が店の外に消える。
誠は立ち上がらず、
そのまま席に座っていた。
ふと、ラジオから流れ出した曲。
♪時の過ぎゆくままに
この身をまかせ……♪
あの声が、
やけに心に響いた。
変えられなかった過去。
取り戻せない時間。
でも、消えてない想い。
外は曇り空。
それでも、春は来ていた。
ふと、肩に
一枚の花びらが落ちる。
誠はそれを払いもせず、
目を閉じた。
そして思った。
もし彼女が今、
同じ曲をどこかで聴いていたら、
少しだけでも、
心があたたかくなっていればいい――と
。
◆5.余韻
◆聴こえるたびに、春が揺れる
あの再会から、
また数年の月日が流れた。
神保町のあの喫茶店は、
今はもう別の店になっていた。
古いソファも、
くすんだ壁紙も、
あの音の鳴る扉も――
もう、どこにもなかった。
誠は、
その道を通るたびに
目線を逸らすようになった。
思い出したくないのではない。
忘れたくないから、
触れないようにしていた。
ある日、
休日の午後に何気なくつけた
ラジオから、あの曲が流れた。
「時の過ぎゆくままに」
沢田研二の歌声が、
あの日と同じように響いた。
胸の奥が、
じわりと熱を持つ。
もう戻らないことも、
二人が選んだことも、
ちゃんと受け入れていたはずだった。
でも、心はやっぱり
ときどき立ち止まるのだ。
彼女もどこかで
この曲を耳にしているかもしれない。
その想像だけで、
少しだけ、今日がやさしくなる。
春はまた巡る。
何も語らず、何も告げずに。
それでも、確かにあの日は、
ここにあった――。
あとがき
この短編は、
沢田研二さんの「時の過ぎゆくままに」から
インスピレーションを受けて書きました。
この曲には、
ただ流されることしかできないような、
けれどどこかでまだ心が揺れている――
そんな不器用な切なさがあります。
過去を美化しない。
でも、忘れもしない。
誰の中にもある「終わったはずの何か」が、
静かに揺れ続けている。
それを描きたかったのだと思います。
この物語が、
読んだあなたの中の
「止まったままの時間」に、
そっと触れられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

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