2.【あらすじ】
雨が上がった港町の酒場。
八代亜紀『舟唄』が流れるなか、
男はふと、あの夜の笑顔を思い出す。
別れも告げられなかった面影に、
今も言えなかった言葉が波間に揺れている。
3.【「雨、やんだな…」】
「雨、やんだな…」
ぬれたアスファルトに映る灯が、
まるで彼女の残像のようで、
男はひとり、港の古びた酒場へ足を向けた。
4.【小雨が上がったばかりの夜。】
小雨が上がったばかりの夜。
港町の片隅にある、
木造の古びた酒場には、
懐かしい匂いと、
懐かしすぎる音楽が流れていた。
「舟唄」──
八代亜紀のしわがれた声が、
店内の空気に溶けていく。
カウンターの端、
一人の男がグラスを揺らしていた。
港で働く者たちが去ったあとの静けさに、
彼の記憶もまた、
音もなく浮かんでくる。
あの夜も、同じ曲が流れていた。
彼女が笑いながら、
熱燗をついでくれた。
まだ肌寒い春の夜、
彼女の手は、ほんのりあたたかかった。
「行っちまうのか、ほんとに」
言えなかった台詞を、
いまさら心の中で繰り返す。
彼女は言った、
「ここじゃ、もう夢を見られないの」
彼には、それが嘘だとは思えなかった。
でも、信じたくなかった。
彼女は黙って、
舟のように、静かにこの町を離れていった。
それから幾度となく、
酒場の灯りをくぐった。
同じような夜、同じような風。
でも彼女の声だけが、
二度とこの場所に帰ってこなかった。
「またひとりで、舟に乗った気分だな」
そうつぶやいて、
グラスを空にした。
ママが、さりげなく新しい酒を注ぐ。
気がつけば曲が終わっていた。
でも、心の中ではまだ
あの舟が、音もなく揺れていた。
5.【プロローグ】
それから十年が経った春。
旅先の港で見つけた
場末のスナックから、あの曲が流れていた。
グラスを口に運んだとき、
ふいに浮かんだのは──
あのとき彼女が残した、
一枚の絵はがきの笑顔だった。
言えなかった言葉は、
いまでも波に揺れている。
けれどもう、
届かなくてもいいと思えた。
6.【あとがき】
この物語は、八代亜紀さんの『舟唄』から生まれました。
港町の哀愁、酒場のぬくもり、別れの痛み──
歌詞そのものは使えませんが、
あの曲が持つ“情景のにじみ”は、
多くの人の記憶のなかに
深く残っている気がします。
誰かを思い出す夜に、
この物語がそっと寄り添えたなら嬉しいです。

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