「加藤登紀子『赤い風船』が揺らす懐かしさ──あの日、空に放した約束」

目次

別れたはずの彼女から届いた、風に舞う手紙。

加藤登紀子「赤い風船」に着想を得た物語。
駅に置かれた一通の手紙。
風船の絵が描かれたその封筒は、
かつて別れた彼女のものだった。
止まった記憶とともに歩き出す、
再会なき再会の物語。

赤い風船の絵

駅前のベンチに落ちていた、
赤い風船の絵が描かれた封筒。
その色が、記憶を引き戻す。
十年前、彼女が最後に残した
あの言葉が、風の音に重なった。

 

春の終わりだった。
人通りの少ない午後、
駅のベンチに座ったとき、
風が一枚の封筒を
足元に運んできた。

白地に赤い風船が一つ、
鉛筆で描かれている。

見覚えがあった。
十年前、彼女がよく描いていた。
無口な人だったけれど、
感情は、ああいう形で
伝えてくれていた。

裏を見ると、宛名も差出人もない。
中を開くべきか、迷った。

けれど、開いた。

中には手紙が一枚。
文字は少なかった。

《ごめんね。
あのとき飛ばした風船は、
あなたの方に向かってたよ。》

喉の奥がつまる。
そんなはずはないのに、
声が聞こえた気がした。

「わたしは、ここにいるよ」

十年前、別れた日のことを思い出す。
桜の散るホームで、
彼女は何も言わず
赤い風船を手放した。

遠くへ行く、とだけ言って、
どこへ行ったのかも言わなかった。

何年も彼女を探した。
でも、見つからなかった。
見つからないまま、
季節だけが通り過ぎていった。

だけど今、目の前に
彼女の記憶が落ちてきた。

風に舞う手紙は、
過去と現在を結ぶ糸だった。

僕はその日、手紙をポケットに入れて、
知らない町へ向かう電車に乗った。

目的なんてなかった。
でも、どこかで風船が
また舞ってくる気がした。

きっと彼女も、
風の向こうで、同じ空を見ている。

そう信じられるだけで、
今日が少しだけあたたかく感じた。

そして心の中で、
そっとつぶやいた。

「行ってくるよ。
君の続きのほうへ」

──完──

『風の向こうで待っていて ―十年後―』
十年ぶりに、あの駅に降りた。
誰もいない午後。
時計の針が止まっているような静けさ。

風がまた、足元を撫でていく。
あの時のように、何かが届く気がして
ベンチに腰を下ろした。

ポケットの中には、あの手紙。
赤い風船の絵と、
あの短いメッセージ。

《ごめんね。
あのとき飛ばした風船は、
あなたの方に向かってたよ。》

あれから十年。
僕は、何度もこの封筒を開いた。
そして、何度も閉じた。

遠くの町で仕事をして、
誰とも深くは関わらずに過ごした。
彼女の名前を出すこともなく、
風のように生きてきた。

でも、それでも。
心のどこかで、
ずっと問い続けていた。

「君は、本当にどこかで
風船を飛ばしていたのか」

あの日の記憶が
不意に頭をよぎる。

ホームに立つ彼女。
何も言わず、
赤い風船を手放した。

そのあと、駅を出て、
後ろも振り返らずに歩き出した姿。

風船が空に消えるまで
僕は動けなかった。

あのとき、追いかけていたら
違う未来があったのだろうか。

でも──
彼女は、自分の意志で
別れを選んだのだ。

それだけは、今でもわかる。

駅の向こうに、
昔のカフェがまだ残っていた。

扉を開けると、小さな風鈴が鳴った。
マスターも年を取ったが、
変わらぬ声で「いらっしゃい」と言った。

カウンターに座ると、
目の前に一冊のスケッチブックが置かれた。

「それ、君に預かってた」
マスターがそっと言った。

開いてみる。

一ページ目に、
風船の絵と、彼女の文字。

《私がいなくなったあとも、
この空のどこかに
あなたがいると思ってた。》

ページをめくるたび、
風景、街角、空、すべてに
赤い風船が描かれていた。

最終ページにだけ、こう書かれていた。

《きっと、また風が連れてくる》

涙は出なかった。
けれど、胸がじんと痛かった。

「……そうか」

ようやくわかった。
彼女は、
今もどこかで風になって、
誰かの背中を押しているんだ。

僕はスケッチブックを胸に抱えて、
もう一度、駅のベンチに戻った。

風が吹くたびに、
彼女の声が、空に広がるようだった。

「君の風船は、確かに届いたよ」

そう心の中で答えて、
空を見上げた。

──終わり──

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