【あらすじ】
春風に誘われて帰った故郷で、
昔の恋人と偶然再会する。
キャンディーズ『春一番』のように、
風が運んだのは、忘れていたときめき。
今も心に残る、あの春の午後。
【桜が風に舞う坂道で】
桜が風に舞う坂道で、
自転車のブレーキ音が響いた。
振り返ったその先にいたのは、
もう二度と会えないと思っていた君だった。
春一番が、記憶を吹き戻した。
【その声が、まるで十年前の午後を】
「…え?」
その声が、まるで十年前の午後を
そのまま切り取ったように響いた。
僕は坂の途中で自転車を止め、
風に揺れる桜のトンネルの中で
呆然と立ち尽くした。
「真樹…か?」
彼女は驚いた顔のままうなずいた。
髪は短くなっていたけど、
あのときと同じ笑いジワが目元に浮かんでいた。
春の風が強く吹いて、
彼女のスカートが軽やかに揺れた。
この坂道は、僕たちが毎日通った道だ。
高校時代、ふたりで登って、ふたりで下った。
ケンカをした日も、黙って手をつないだ日も。
すべて、この坂に置いてきたと思っていた。
「今、帰ってきたの?」
「うん。急に、来たくなって。
春一番が吹くとさ、君のこと、思い出すんだ」
不意に口をついたその言葉に、
彼女は少しだけ目を伏せた。
「私も、あの日のこと、よく思い出すよ。
桜が咲くとね、毎年のように」
風に乗って、花びらが肩に舞い落ちた。
あの頃の僕たちは若くて、
未来に焦りすぎていた。
君の夢と、僕の道は交わらなかった。
いや、交わせなかった。
「コーヒーでも、飲んでいかない?」

彼女の提案に頷いて、
僕たちは坂を下った。
言葉を選びながら、昔をたどる。
でも、気づけば笑い合っていた。
「あのとき、君が書いてくれた手紙、
ずっと持ってたよ。
読めなかったけど、捨てられなかった」
そう言うと、彼女は微笑んだ。
「うん。私も、返事書いたけど…
結局、出さなかったんだ」
夕方、駅に向かう途中の分かれ道。
別れ際、彼女が言った。
「春って、やっぱり少し、切ないね」
僕は答えず、
その背中を、風が押していった。
【プロローグ】
都会のベランダに吹いた風が、
少しだけ、あの日の空気に似ていた。
棚の奥にしまったままの小箱を開くと、
出しそびれた手紙が一通、
まだ春の香りを残していた。
【あとがき】
『春一番』には、ただ明るいだけじゃない、
何か大切なものを風が運んでいったような
切なさが宿っている気がします。
懐かしい風景、ふいに再会する人、
そして言えなかった言葉。
この物語は、そんな”春”の一瞬を
そっとすくいあげたつもりです。
あなたにも“風が運んだ記憶”があれば、
どうか大切にしてください。

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