松山千春 それでも恋は続いていた
松山千春『恋』の
世界観をもとに描く、
かつて愛した人の名を、
ふとした瞬間に
口ずさんでしまう??。
季節が変わっても、
街が変わっても、
心のどこかで
消えずに残る恋の記憶。
再会のない、
けれど確かに生きた恋の物語。
名前をつぶやいた夕暮れ
仕事帰りの夕暮れ、
僕はいつものように
駅前のベンチに腰を下ろした。
スーツのポケットから取り出した
煙草に火をつける。
白い煙が、
目の前でふわりと広がった。
その瞬間、
風に混じって届いたのは、
春のはじめのにおい。
どこかで嗅いだことのある、
懐かしい香り。
思わず口をついて出たのは、
君の名前だった。
「……沙織」
誰に呼びかけたわけでもない。
ただ、小さく、
誰にも聞こえない声で。
駅前の雑踏の中に、
僕の声はすぐに
かき消された。
けれど、自分の耳には、
やけにくっきりと
残った気がした。
それは、
思い出の扉を開く
小さな鍵だったのかもしれない。
あれほど時間が経って、
心の奥にしまいこんだはずなのに、
たった一言で、
胸の奥がざわめき始めた。
君の顔が浮かんだ。
声が、仕草が、
笑い方が、
次々と記憶の底から
湧き上がってくる。
会いたいなんて、
思っていないはずだった。
話したいことなんて、
もうないと思っていた。
だけど、
春の夕暮れに包まれて、
心が勝手に
君を探していた。
煙草の煙は消えて、
街の灯りがゆっくりと灯る。
いつも通りの風景なのに、
今夜だけは、
すべてが過去と
つながって見えた。
それは、
きっと、
恋がまだ終わっていない証拠だった。
??静かに始まる、
心の旅のような夕暮れだった。
高校の坂道で
僕が君と初めて話したのは、
高校一年の春、
新学期の帰り道だった。
坂道の途中、
後ろから自転車を押して
歩いていた君が、
前を歩く僕に向かって
小さく声をかけた。
「ねえ、ここって、
もうすぐ桜並木だよね?」
振り返ると、
まだ制服に不慣れそうな君が、
少し照れたように笑っていた。
あの日の風の匂いと、
君の笑顔が、
今も記憶に焼きついている。
それからというもの、
僕らは時々、
一緒に帰るようになった。
話す内容は、
他愛のないことばかり。
新しい先生の口癖、
部活での失敗談、
購買のパンの争奪戦??。
けれど、
それらすべてが、
僕には特別な時間だった。
君が話すときの
手の動きや、
少し高めの笑い声、
何かに夢中になるときのまなざし。
その一つひとつに、
気づけば惹かれていた。
ある日、
君が自転車のチェーンを外して
困っていたのを見て、
僕はとっさに駆け寄った。
慣れない手つきで
直そうとして、
指を真っ黒にしながら
二人で笑った。
「ありがと。助かった」
その一言が、
やけに嬉しくて。
それを境に、
君の存在が
僕の中で
大きくなっていった。
ただのクラスメイトじゃない。
ただの帰り道の相手じゃない。
この人のことを、
もっと知りたいと思った。
??それが、
僕の『恋』の始まりだった。
恋の日々:笑顔と涙の記憶
君と過ごす時間が、
当たり前になっていった。
放課後、昇降口で待ち合わせて、
坂道を並んで歩く。
コンビニで買ったアイスを
分け合って笑ったり、
制服のまま川べりで
夕日を眺めたり。
君の横顔を
見ているだけで、
一日が報われる気がした。
季節は夏になり、
花火大会の日、
僕たちは初めて
手をつないだ。
人ごみに紛れて、
そっと指が触れ合い、
君が小さくうなずいた。
あのときの、
胸がはじけるような鼓動は、
今もはっきりと覚えている。
その夜、
線香花火を二人で見ながら、
君はぽつりと言った。
「ずっと、このままだったらいいね」
僕は何も言えずに、
ただ横にいた。
君が笑ってくれていれば、
それで十分だと思っていた。
けれど、
恋は静かに揺れる。
少しずつ、
すれ違いや沈黙が
混ざっていく。
受験、進路、夢。
話しても、答えは出ないことばかり。
ある日、
放課後の教室で、
君が泣いていた。
「……わかってるよ、
ずっと一緒にはいられないって」
僕は、
君を抱きしめることしか
できなかった。
あの涙の意味を、
当時の僕は
ちゃんと理解していたのか。
今になって思う。
あの頃の僕は、
恋をしていたけれど、
まだ誰かを
守る力を持っていなかった。
??それでも、
あの日々は確かに、
人生の中で一番、
真っすぐだった。
君と僕が、
恋という名前でつながっていた時間。
離れた日々:夢と距離
高校を卒業した春、
僕は地元を離れて
東京の大学に進学した。
君は、地元に残って
就職することを選んだ。
「応援してるよ」
と笑った君の声が、
あのときは
やけに遠く聞こえた。
引っ越しの日、
駅まで見送りに来てくれた君は、
僕の手に
折りたたまれた手紙を渡して、
それ以上何も言わなかった。
最初のうちは、
毎日のように連絡を取り合った。
通学の電車、
新しい友達、
東京の空の話。
君は、
職場での出来事や、
日々のちょっとした喜びを
まっすぐな言葉で綴ってくれた。
でも、
日が経つにつれて、
連絡の間隔は開いていった。
新しい課題、
サークル、
バイト、
付き合い。
毎日が目まぐるしくて、
君の存在が
少しずつ遠くなっていった。
君は何も言わなかった。
責めることも、
問い詰めることもせず、
ただ静かに
僕の後ろ姿を見ていたんだと思う。
秋になり、
久しぶりに帰省した。
君は変わっていなかった。
けれど、
僕は自分の中に、
どこか他人のような感覚を抱いていた。
一緒に過ごす時間に、
どこかで申し訳なさを感じながら、
でも口にはできなかった。
それでも君は
笑ってくれていた。
あの笑顔が、
痛かった。
そしてまた、
僕は東京に戻った。
何も言わず、
何も答えず、
ただ時間に流されるように。
??恋は、
続いているつもりだった。
でもきっと、
その頃から、
君の心は
少しずつ、
僕の手からこぼれ落ちていたんだ。
紙:たった一行のさよなら
年が明けて、
僕は就職活動に追われていた。
エントリーシート、
面接、
スーツ姿の自分に、
ようやく少しだけ
“東京の人間”になった気がした。
君とのやりとりは、
もう月に一度あるかないか。
それでも、
君の言葉は変わらず、
静かで、優しくて、
まるで僕のことを
包み込んでくれるようだった。
ある日、
久しぶりに地元から
封筒が届いた。
差出人の名前を見た瞬間、
息を飲んだ。
沙織??。
中には、
便箋一枚。
書かれていたのは、
たった一行だった。
「元気でね。」
黒いペンで
丁寧に書かれたその言葉に、
君のすべてが詰まっていた。
何も責めず、
何も求めず、
ただ僕の未来を
祈ってくれていた。
僕は、
返事を書かなかった。
何を書けばいいのか、
わからなかったからだ。
電話も、しなかった。
声を聞いてしまえば、
何かが崩れてしまいそうで、
怖かった。
それから、
君からの連絡は
二度と来なかった。
それが、
本当の終わりだった。
でも僕は、
そのたった一行で、
ずっと心を掴まれたままだった。
君の言葉が、
今でも、
胸の奥で、
静かに息をしている。
現在:風が運ぶ記憶
春の風が街を撫でる夕方、
仕事帰りの僕は、
ふと昔と同じベンチに腰を下ろしていた。
制服からスーツへ、
学生から社会人へ、
立場も景色も変わったのに、
なぜか今日だけは、
何もかもが昔のままのように感じた。
スーツの内ポケットから
くしゃくしゃになったままの
一枚の手紙を取り出す。
「元気でね。」
それだけの言葉が、
紙の中に残り続けている。
声に出して読んでみたら、
喉の奥が少し詰まった。
君は今、
どこで何をしているんだろう。
誰かの隣で笑っているのか。
それとも、
あの町で変わらずに
暮らしているのか。
確かめる術もないまま、
時だけが過ぎた。
手紙も、
連絡も、
もう何年もない。
けれど不思議と、
君の存在は、
時間の外側に
置かれているような気がする。
失ったという実感がないまま、
ただ、
君がそこにいるような
錯覚だけが残っている。
春の風が吹くたびに、
記憶の奥から、
あの日の声や仕草が
ふわりと立ち上がる。
思い出とは違う。
もっと、
今に近い何か。
まるで、
今もまだ、
君と僕の時間が
細く、
静かに続いているような??。
僕は目を閉じて、
その風を吸い込んだ。
まるで、
君の気配を
探すかのように。
結び:恋は終わらないまま
君のことを思い出すたび、
切なさとあたたかさが
同時に胸に広がる。
終わった恋だと
自分に言い聞かせていたけれど、
本当は、
終わったことにしたかっただけだった。
あの手紙、
あの声、
あの風景??
すべてがまだ、
僕の中に息づいている。
恋は、
形を変えても、
確かに生きている。
君に伝えたい言葉は
もう届かないかもしれない。
でも、
君があの一言に込めた願いを、
僕は今、
ようやく受け取った気がする。
「元気でね。」
その言葉の重さを、
あの頃の僕は
知らなかった。
だけど今なら、
胸を張って言える。
??僕は、
ちゃんと元気でいるよ。
そして、
あの恋は、
今も心の中で
静かに続いている。
春の風がまた吹いた。
どこかで君も、
同じ空を見ているだろうか。
それだけで、
少し救われる気がした。

コメント